モータースポーツ

スポーツカーレース

ジャガーは1950年代から、スポーツカーレース、特にル・マン24時間レースで活躍した。1951年と1953年にCタイプで、1955年から1957年までDタイプで総合優勝した。

その後モータースポーツから遠ざかっていたが、1980年代中盤にトム・ウォーキンショー率いるTWR チームがジャガーのV12エンジンを使った耐久スポーツカー(プロトタイプレーシングカー)レース用の車を設計した。TWRチームは1988年と1990年のル・マンで総合優勝した。

F1

1999年、フォードは活動を支援してきたジャッキー・スチュワート率いるスチュワート・グランプリを買収し、同社傘下のジャガーブランドで2000年からF1参戦を開始した。そのマシンは往年のナショナルカラーのブリティッシュ・レーシング・グリーンを纏い、「ビッグキャット」と呼ばれたジャガーのデザインが描かれた。当初は長年コスワースとともにF1に参戦してきたフォードがついに本気で参戦を開始するというふれこみで、大々的なプロモーション活動が注目された。しかしフォードの業績不振に伴い2004年シーズンをもってF1から撤退を発表するまで、チーム代表が頻繁に交替し、下記の様にわずか5年の間に8人のドライバーを起用するなど、常に政治的な動きに翻弄された結果、肝心のマシン開発が疎かとなり、散発的な入賞を記録するも、全く成功とは程遠い惨憺たる有様であった。

2005年シーズンへ参戦するのかが注目されていたが、結局チームはそれまでザウバーチームなどのスポンサーでモータースポーツとの関わりを深めていたオーストリアの栄養ドリンクメーカー レッドブルへ売却された。結果として、ジャガーが2005年用のマシンとして開発していたマシンで参戦を始めたレッドブルが、2005年にそれなりの成績を収めたことから、ジャガーがいかに方向性を失っていたかが明らかとなったのである。 この時の買収金額は「1ドル」と言われているが、これは買収金額が一番多い会社への売却をフォードが求めたのではなく、従業員の雇用確保と安定した参戦資金の確保を条件とした結果、レッドブルが選ばれたためである。

2004年の最終戦では、各チームで恒例となっている全スタッフによる記念撮影が行なわれたが、チームの売却先が決まっていないタイミングでの撮影であったため、「FOR SALE」のプラカードが掲げられていた。

参戦当初

ジャガー最後のマシンになったR5参戦当初、ジャガー・レーシングのチーム代表にはニール・レスラーが就任した。レスラーは、友人であったボビー・レイホールをマネージングディレクターとして据えた。レイホールが技術スタッフを人選すると、スチュワート時代からの技術陣は崩壊し、多くが解雇されたり、自らジャガーを去っていった。撤退発表の時点で、スチュワート時代から残っていたスタッフは、チームマネージャーのデビッド・スタッブスとメカニックが数名だけだった[要出典]。撤退までの5年間で、技術部門のトップであるテクニカルディレクターは、アラン・ジェンキンス→ゲイリー・アンダーソン→スティーブ・ニコルズと代わった。

レイホール時代

レスラーは、2000年で引退し、2001年からレイホールがチーム代表兼CEOに就任した。この年の6月、ジャガーのテクニカルディレクターとして、レイホールは友人であったエイドリアン・ニューウェイ(当時マクラーレン・メルセデス在籍、現在レッドブル・レーシング在籍)と契約したものの、ニューウェイが在籍していたマクラーレン・メルセデスのチーム代表ロン・デニスに説得され、ジャガー入りを翻意したというこの事件で、レイホールは失脚。また、この頃テクニカルディレクターだったニコルズもチームを離脱しており、代役をチーフ・エンジニアであるジョン・ラッセルが務めた。

ラウダ加入と怪人事

レイホールに代わり、2002年からはウォルフガング・ライツレが事実上の責任者となる。この時点で、ジャガー・レーシング内部からアメリカ陣営は撤収。ヨーロッパ組が全指揮を執ることとなる。ライツレは、親しかったニキ・ラウダをチーム代表に据え、レイホールをアメリカに戻すという口実で、ラリー部門出身のギュンター・シュタイナー(前レッドブル・レーシング テクニカルディレクター、2006年4月1日付でNASCARのレッドブルチーム(2007年より参戦予定)のテクニカルディレクターに就任)を技術部門のトップに据えた。しかし、2002年半ば、フォードはジャガー・レーシングをデトロイト本社の傘下に戻すことを決定。ライツレはあえなく解雇されてしまう。また、ラウダもこの時の不可解な人事によってシュタイナーと共に解雇されている。ちなみにこの時ラウダはフォード本社に問い合わせても全くコンタクトが取れず、自分の解雇をニュースで知ったという有様だった。この解雇が原因で、ラウダは相当なイギリス人嫌いになったという。また、この時のラウダの"置き土産"となったのが、アントニオ・ピッツォニア(ジャガー→ウィリアムズ第3ドライバー)である。

撤退までの混迷

ライツレの後任には、リチャード・パリー・ジョーンズが就任。早速ジョーンズはフォード傘下でレース用の電子システムなどを手がけるPIリサーチから、辣腕として知られていたトニー・パーネルをチーム代表に、デビッド・ピッチフォースをマネージングディレクターとして招聘。改革に着手する。しかし、極端な予算削減を本社から言い渡されたチームは、2003年2月のバルセロナ・テストの最中に120名ものスタッフを突如解雇した。さらにこの時はテストを途中で切り上げさせ、チームを強引にイギリスへ戻している。この結果、チームは30%強もの人材を失ってしまう。さらに、パフォーマンス条項を理由にシーズン途中でピッツォニアを解雇。スポンサーから資金援助を受けているために、サラリーが発生しないジャスティン・ウィルソンをミナルディから獲得する。ピッツォニアは、もともとラウダが契約したということで目の敵にされていたという。

さらにこの頃フォード本社でも問題が発生する。それがファイアストンとの問題である。99年から40件以上、警察に記録されていたフォードのSUV、エクスプローラーのタイヤバースト事件において、エクスプローラーにはミシュラン製のタイヤも供給されていたにも関わらず、当時フォード本社のCEOであったジャック・ナッサーはファイアストンの技術的欠陥だと公然と指摘してしまう。これが大きな波紋を呼び、ファイアストンがフォードを提訴。この訴訟は、ファイアストンの圧勝で終わり、フォードは多額の賠償金を支払う羽目になる。当然、この訴訟の引き金となる発言をしたナッサーは解雇された。後任のCEOには、フォード家出身のウィリアム・フォードが就任する。これがジャガー撤退への決定打となってしまう。実はフォード家自体は多額の資金が必要なF1活動に反対しており、ナッサーが15年に渡りフォード家の反対を押し切ってF1活動を続けてきた張本人だったのである。パーネルが採用したテクニカルディレクターのマーク・ギラン博士は、限られた予算の中でマシンを作ったものの、デトロイト本社の首脳の気持ちを変えることはできなかった。結局2004年9月17日、フォードのモータースポーツ部門のプレミア・オートモーティブ・グループの代表であったリチャード・パリー・ジョーンズがジャガー撤退を発表。ジャガー・レーシング本体と共にレースエンジン製作の老舗コスワース・エンジニアリングとレース用電子システムなどを製作するPIリサーチも売却された。最後までビッグ・キャット(ジャガーの愛称)とブルーオーバル(フォードの愛称)は、ワークスとしての勝利を挙げることはできないまま、F1から消えていった。

ダイヤモンド紛失事件

2004年のモナコGPでは、ワーナーのスポンサードで映画『オーシャンズ12』カラーのマシンを走らせた。PRの目玉として、フロントノーズにイスラエルのダイヤモンドメーカーシュタインメッツ社の時価25万ドルの同社製“ピンクダイヤモンド”(en)を埋め込んで出走したが、クリスチャン・クリエンの駆るマシンが1周目のロウズヘアピンでクラッシュ。壊れたフロントノーズはレース中コース脇に撤去されていたが、後でチームが回収するとダイヤが無くなっていた。

Jaguar Cars Ltd

種類 limited company
本社所在地 イギリス、コヴェントリー
設立 1922年
事業内容 自動車
代表者 David Smith (CEO)
従業員数 10000
主要株主 タタ・モーターズ